プロフィールⅠスポーツ用品の営業マン(ルートセールス)時代(20代)

プロフィールⅠ20代(外資系スポーツ用品の営業マン時代)

外資系輸入スポーツ用品メーカーに就職

就活は、大学の4回生の8月いっぱいまで、北海道(知床半島のウトロの観光船等)でアルバイト生活を行っていたので、解禁日の、10月になってから始めました。就職活動は、わずか、2ヶ月ほどでした。

就職説明会もスポーツ用品メーカーにあこがれていたので、そういったところばかり回ってましたが、説明会では入社希望者が何百人もいたりして凄い熱気でした。熱い就活生の中には、リクルートスーツに、そこの会社が製造販売している真っ赤なスニーカーを履いて必死にPRとかしてました。当時の説明会では、『うちの会社は、コネが無いと入れない』(〇〇県の〇〇競技連盟会長のご子息・令嬢ならOK)とか言ってました。当時は、他の会社の説明会でも、『例え入れたとしても、〇〇大学(一般的な3流大学)卒の人は、何年たっても、いまだに流通倉庫で配送係やってますよ』とかそんな事を言う(マウントしてくる)のが当たり前。

ただ、私が入社できた外資系輸入商社は、就活の解禁期日も、キッチリと守っており、面接と適正テストみたいなもので採用してくれた(大学なども関係ない)ので、何とか滑り込みました。

後ほどわかるのですが、スポーツ業界には、〇〇県の〇〇競技連盟会長のご子息(令嬢)とか、某有名スポーツ店の息子などはいました。

とにかく、20代の頃は、営業としてのコミュニケーション能力に秀でてたわけでもなく、スポーツ用品(スキー用品)メーカーの営業が楽しくて仕方がないと言う感覚。
ここから↓は、エピソードなどを交えながら、もう少し詳しく紹介して行きたいと思います。この時代(20代)の経験は、すごく将来にプラスになったようです。読んでいただいた方も、何か興味を持っていただけたら幸いです。また、経験した様々な裏話も、余談と言う形で、別カテゴリーで書いたのでそちらも是非ご覧ください。

デッドストックの山

たまたま配属された営業所(大阪)では、ひょんなことから担当がスキー用品(+登山用品)になってしまいました。
そのメーカーでは、営業所長の方針で新入社員は全員(4名)商品を覚えるために、入社後半年間は、倉庫業務。要は、自分がこれから販売する商品を手に取って覚えられると言う事でした。

ただ、そこには、売れなくて何年もの間デッドストック(不良在庫)になっているモノもたくさんありました。その中でも、スキーのアルミダイキャスト制のビンディング(スキーとブーツをつなぎとめるもの)が大量に、売れ残っていたのです。それを、綺麗に整理をしてくれと倉庫の人に言われたので、やっていたのですが、『とにかく、重たすぎる!!』何年も前のモデルだから、箱も古くなってるし、重たくて、積み上げることする出来ない。

*当時の外国製品には、化粧箱という発想自体なかったみたいです。後発の日本のメーカーが、そういったこともよく研究し、化粧箱は見た目も綺麗だし、ストックするのも陳列するのも便利なように考えられた設計。あっと言う間に、シェアを取ってしまう事も見かけけられました。→聞き上手、引き出し上手! 欧米製のスキー用のゴーグルやサングラスなどは、性能は悪くないのですが、化粧箱が貧弱の上に定価も高く、反対に、デザインや性能も良くて、化粧箱も綺麗で定価も安い国産のメーカーにシェアを、どんどんと奪われてしまった記憶があります。
・日本製の化粧箱は、小売店の店頭の陳列だけでなく、自宅でのスキーシーズンオフの片付けにも便利な設計。

作業日報に書いてしまった

重たいし、堅牢だけれども格好良くないデザイン、しかもドイツ製のためか、名前もイマイチ日本人受けしないし、売れそうもない』と感じてしまったので、そう言った感想をさらっと、日報に書いてしまったのです。一応、学生時代にスキーをやっていたので、わかった風なことを書いたのでしょうね・・・。その内容が気に食わないと営業所長が激怒!すぐに、明日から、営業所へ来いと呼びつけられました。

それを持って売って来い!

翌日に営業所に出社したら、売れ残ったドイツ製の重たいビンディングのサンプル売れ残りのスキーウエアをバッグに詰め込んで、「どこでも良いから売って来い」と放り出されてしまいました。一応、ルートセールスですが、今まで取引のないスポーツ用品店を地図で調べて、片っ端から訪問してました。

お前の会社はここが悪い!!=ひたすら聞いてたら売れるようになった!

当時は、まだスキーの専門店や、大型安売り店や町の運動具屋さんもたくさんあったので、毎日、片っ端から飛び込み営業を繰り返すことに・・・・。真夏だったので特にスキーの専門店は暇なので、とにかくよく話をしてくれた(会社の悪口を聞かされた)のを覚えています。とにかく、『オマエの会社のここが駄目だ!』と言う話ばかりで、それをひたすら聞かされてました。

「お前の会社の商品は、大型安売り店でたたき売り(安売り)される」から扱う事が出来ないと異口同音に皆さんが言うわけです。ただ、そこまで話を聞いてくれるメーカーの人間は、他のメーカーにも全く居ない!し、お前だけと言ってくれるようになり、可哀そうだと言って少しずつ買ってくれる小売店が出来るようになりました。ドイツ製は、堅牢だし、性能も良いのである程度は売れるようになってました。

日本製(登山用品)が、他を圧倒する時代が・・・!←余談

当時のヨーロッパの商品(スキー用品等)は、イタリアやフランスの製品はおしゃれ(カッコイイ)だけど、主に扱っていたドイツ、オーストリアの商品は、堅牢で性能は良いけど、当時の日本人(特に若者)受けしなかったんですよね。客先の意見を素直に受け入れる(聞き上手になる)と言う事を肌で感じる事が出来、又、顧客の欲しがっているモノじゃないと売れないと言うのもその時知りました(引き出し上手になる)。

*登山用品でも、最初は欧米製が圧倒的に強かったのですが、機能性や、デザインも重視した日本のメーカーが、次第に外国製を凌駕して行く様子が見えました。30年ほど経った今では、国産が強くなってますよね。特にアウトドアー用品は、日本のメーカーがかなり強くなってるのではないでしょうか?とにかく、ユーザーの欲しがるモノを作る丁寧な姿勢が良いんでしょうね。

*私が居たころは、エベレストへ行くような、特に重登山に必要なグッズは、ほとんどが、欧米からの輸入品(カラビナ、アイゼン、ピッケル、ロープ、梯子等)。必要なグッズが、私が居た会社が輸入した欧米製なので、『○○山岳会○○周年記念・○○山・学術登山隊の協力お願い』の様な依頼を、何度かもらったことがあります。

100杯のコーヒーより1杯の酒!

スキー用品/山用品(ルートセールス)の部隊に配属され、担当は、大阪以外の西日本(兵庫、京都、滋賀、和歌山、奈良)+ 九州や、中・四国まで担当。市場の大きい大阪と北陸は、一つ年上の先輩が担当・・・。
とにかく夏場に、『売れ残りのスキー用品の販売と来季モデルの受注をしてこい!』と言う指示だったので、汗だくになりながらの営業の繰り返し。山陽、山陰地方は、キャラバン(車での長期出張10日間位)

当時、ある先輩に言われたのが、(特に山陽道や九州方面は)営業するなら、酒が飲めないとダメ→『100杯のコーヒーより1杯の酒!』さらに、マージャンやゴルフの付き合いも必要・・・。今では問題になるでしょうが、当時のマージャンは、レートが大きくなる3人打ちとかも当たり前のようでした。代理店(問屋)の中堅幹部クラスの人達は、お客さん(小売店の幹部)とお酒を飲み、マージャンやゴルフをするのも半分仕事みたいな感じでした。運よく、私は、お酒は1滴も飲めないし、マージャンもギャンブルも全くしませんでした。ゴルフも少しだけ。だから人と違う営業スタイルを構築できました。 *その時の経験を教訓にして、いまだに、お酒もギャンブルもやりません。

トップセールスマンになるために・・・!

2-3年もすると酒も飲めないし、マージャンも出来ないけれど、良く売れました。多分、まじめで、粘り強く、お客様の話も聞いていた(観察していた)と思います。お酒は飲めない分、頭の中は、いつも新鮮で、常にフルに活用して色々考えておりました。

さほど自社商品には、魅力は無かったのですが、とにかく『お客さん(小売店)の話を聞く(観察する)』ことに専念。

当時は、スキー人口も多く、市場も非常に大きかったので、スキー用品店も人手不足のため、夕方になると(仕事終わり等)、会社近くの小売店や会社帰りに、自宅近くのスキー専門店に販売応援に行くと言うのも日課でした。土日も、11月、12月は、休みなく小売店の店頭に立ってました。こうやって、販売応援に行く事で、お店の方々に顔を売り、自社の商品も覚えてもらえるので、店頭での自社商品の消化率(販売量)も安定して増加と言う好循環が生まれてました。販売応援に行って、商品を売ると言うのは、当時は貴重でした。人気のあるライバルメーカーの商品でも平気で売ってました。そうすると、お店での評価も上がり酒は飲めなくても、営業時間中に店員さんとのコミュニケーションが取れると言う事も出来ます。また、店頭に立つことで市場動向などの様子を伺う事もできるので、様々なアイデアも閃き、色んな戦略も浮かんだものです。

また、販売応援は、私だけでなく、アルバイトの学生さんも雇って派遣。彼らの、情報や意見も細かく収集(分析)=観察して、販売応援の戦略を一緒に立案してました。とにかく販売応援の実績(売上げ)が上がれば、お店は喜んでくれます。雇った学生バイトさんも気持ちよく仕事をやってくれます。

ただ、学生バイトさんはにとっては、それほど人気の高くない商品だったので、我々の商品の販売に、相当苦戦。そこで、考えた戦略が、スキー関連のグッズの販売(ゴーグルやサングラス、ストック等⇒意外と、高単価な商品が多い)これらの商品も取扱商品だったので、買ってもらってました。彼ら(バイトさん)には、スキーやスキー板の大物の販売ではなく、先ずは、スキー関連のグッズを販売するようアドバイス。関連グッズは、他の競合メーカーは、一切、販売応援に来ないので比較的、誰にでも売れます。 とにかく何でも売れたら、アルバイトさんにとっては楽しいもの。モチベーションも上がります。こちらも、事後報告で、彼らをほめまくるだけ。そうすれば、大物商品(スキー/スキー靴)も次第に売れるようになって行きました。(⇒自社商品の、消化率が良くなる!

販売応援は、平日にも行く・・・ライバル会社は、バイトだけ。担当営業は、絶対に、行かない。お客さんが少なくてもライバルも少ないので、担当が応援に行けば、余計に売れて行きます。1日あたりは少なくても、週に、3-4日でも行けば、土曜日や日曜日の1日分くらいは、軽く売れる計算になります。これを繰り返せば、少しずつでもそのお店でのシェアは取れます⇒消化率がUP!)。 いまでは通用しないと思います。販売応援で、小売店の指示の下で、動く(働く)とかそういう事も問題があるとか言われてる見たいですね・・

『酒は飲めなく(飲まなく)ても、売れる』と言うのを実感

当時は、付きあいとかしがらみ(要は酒やマージャン+ゴルフの付き合い)で商売すると言う『旧態然』とした営業スタイルが、横行しかし、そんなやり方は、一切無視して自分の好きなように考えて営業してました。

『100杯のコーヒーより1杯の酒!』は、全く必要なかったですね(そんな事より頭を使おう!)。
年月を経て、今になって経験としても分かりました。酒ばかり飲んで、タバコ吸うなど、体に良くない事ばかりして、目先の数字を上げたとしても、その結果は大したことは無かった(後の時代の変化には、ほとんど対応出来なかった)のです。後々、頭を使うことの重要性が本当に大切であると言う事が分かる事態はたくさんありました。当時は携帯電話もなく、個人が使うパソコンもほとんど普及してなかったから『100杯のコーヒーより1杯の酒!』と言う旧態然とした営業スタイルが通用したんだと思います。パソコンやインターネットが普及し始めてからは、『100杯のコーヒーより1杯の酒!』営業の人は、時代の変化に対応できない人になってしまうことになったと思います。

〇『聞き上手、引き出し上手になる=頭を使う/分析する』と売れたと言うのが、実感です。酒とタバコや麻雀で頭が回らなくなるより、もっとスマートに頭を使おうと言う事でしょうか!?

『営業マンに、評論家は要らない!売ればいいんだよ!』⇒会社を辞めるきっかけに・・・

多分、ダントツのトップセールスマンとして入社以来何年もの間、頑張って来たのですが、スキーの来季モデルの商品開発には一切、営業マンの意見を受け入れない(聞こうとしない)営業部長さんの一言で会社が嫌になりました。

スキーは季節商品なので、来季モデルの商品開発は、前年の夏までに、商品会議を東京の本部でするのですが、末端の営業マンの言う事は、全く聞こうとしない(聞く耳を持たない)。特に営業所のセールスマンの言うことなどは、一切無視。スキー用品は、主にオーストリアなどからの輸入品なのですが、そのメーカーへのデザインや仕様などの要望(海外へ提出する要望)は、本部のある東京の部署だけで決めてしまう(自分たちだけで決めてしまう)。大阪の営業所の事など全く聞く耳を持たない。会議には、末端の大阪の営業マンは出席もさせてくれない。ただ、全国的に見ても、成績の良い営業マンだったはずなんですけどね。
海外に、来季モデルを発注する時も本部から2-3人で行って、先方(外国)で歓待を受けて、調子に乗って先方の言いなりで買ってしまう事が通年業務。

ある年、大阪から唯一会議に参加できた上司の課長さんは、営業部長から営業マンに、評論家は要らない!売ればいいんだよ!の一言で終わらされてしまう始末・・・。全く、聞く耳を持たない!

この言葉を聞かされた瞬間に、会社を辞めると決めました。一応、営業成績は出していたし、小売店の意見やエンドユーザーの動向などは、会社の中では、それなりに分かっていたので、その意見を一切取り上げてくれない会社を見切るしかなかったのです。『営業マンに、評論家は要らない!売ればいいんだよ!』と言う言葉は、一番つらかったですね。絶対に辞めてやると、決めました。この言葉は、40年近くたった今でも、脳裏に焼き付いています。

『〇〇を美人にして売るのは、もう限界』

その頃、よく大阪の営業所では、『〇〇を美人にして売るのは、もう限界』と言う言葉も口癖みたいになってました。
外国製品も、日本市場向けに売れるスキー用品を作るなら、日本市場を分析して商品を作らなければ売れません。市場の意見を聞き、そしてそれをどう商品にして行くかを考えなければなりません。でも、一切、日本市場に合わせた商品を作ってもらえない。

来季モデルの、小売店向けの受注会(展示会)では、私たち末端の営業マンは、『日本向けに作ったからカッコいいでしょ、売れますよ』と必死に口説くわけです。『これって、本当にカッコいいと思う?おしゃれだと思っているの?』と受注会(展示会)で、お客様(小売店)に言われる始末。 それでも、必死になって『〇〇を美人にして売る』しかない。ある程度は、日々のお付き合いと粘りと根性で、売るのですが・・・。当然、部長さんが思うような数は、簡単には売れない・・・。

聞き上手、引き出し上手になる

市場の動向が良く分かっている末端のセールスマンの意見も素直に聞き、商品開発に生かすのはとても大切。売れない原因を素直に受け止め、受け入れる(=聞き上手、引き出し上手になる)のは、重要です。

*今も経営者の方や、幹部の方は、市場を知っている末端の営業マンの言う事に、全く耳を傾けない方もいらっしゃる様な気がします。売れる商品を作るなら、聞き上手/引き出し上手/になる事は重要です。そして褒め上手になる事。もちろん、売れないことを商品力のせいにする営業マンの言う事は気にする必要はありません。ただ、決定権のある自分が考える事がすべてだと言うのもよろしくないと思います。

会社を休みたければ、風邪を引け!、熱を出せ

土日に販売応援に行っても代休が取れず、『会社を休みたければ、風邪を引け!、熱を出せ』と言うのが、先輩のアドバイス。
一応、販売応援にはアルバイトも使っていたのですが、本当に、身を粉にして働いていたのですが手が足りずに、休んでる暇もありません。病気になって休むくらいしかありませんでした。その先輩は、たまに会社をそう言う事(仮病)で休んでました。私は、バーゲンの販売応援に行って出されたお弁当で食中毒になって休んだことがあるだけ。

ライバル会社(売れるブランド)の営業スタイルを見れば分かることもある

聞き上手になれば⇒スキが見える

当時の売れてないメーカーの社員は、競合ライバル会社(特に売れているブランド)からは常にマウントされます。
ライバル会社(売れるブランド)の営業マンは、新人であっても傲慢になります。でも、彼ら(一流メーカー=売れているブランド)営業マンには本当の実力が無くても、強いブランド力はあります。ただ、そう言う彼らは、総じてスキを見せます。

例えば、当時の一流ブランドは販売価格維持戦略(二重価格統制)も厳しく、絶対に値引きは申し合わせ以上にはさせません。
安く売っている小売店を見つけたら、即座に商品を店頭から引き上げるなんてことも良くやってました。
私は、平日の夕方はや土日は、朝から販売応援に行くのに、彼らは、日曜日は、販売応援に出る(社長出勤程度)のですが、販売価格のチェックのために小売店の店頭に立っている事も多く、又、そう言う会社の管理職は、ひたすら販売価格のチェックに、小売店回りをしてました。

販売価格の約束が守られてないと、小売店とも良くもめてました。現在でも、日本では、二重価格統制は、公正取引委員会によって禁止されていると思います。

こういう、メーカーは、売らしてやってると言うような態度で小売店とも接するので、小売店とも仲良く出来ずに、我々が付け入るスキも沢山ありました。小売店サイドは、売れるから、仕入れてるだけ。売れないと、こんなメーカーとは、付き合いたくないとなってくるわけです。

普段から、観察しておく(+聞き上手になる)ことが重要です。あとは、自分次第で、どうしたら売れるようになるか考えればよいだけ。

また、良くあるのが、売れているブランドの社員たちは、競合他社の商品を蹴落とす事ばかりを考えて行動したりします。一流ブランドだから、一番良い場所(お客の目に付きやすい場所)に商品を並べるのは当たり前と思っていた様でしたね。ライバル社の商品が自社商品より良い所に置いていると文句を言って、小売店に模様替えさせるような事もあります。私は、そういう会社の商品を、勝手に目につきにくい所に置くとかも平気で良くやってました。

夢にまで出てきた売れない商品

本当に必死になって営業していたし、『どうしたら売れるだろう!』と、日夜、それを考える毎日。ある日の夜、自分が販売していた商品(スキーブーツ)の在庫の山が崩れて、下敷きになる夢を見たこともありました。にまで見たのはこれ以外にも何度かあります。

その夢を見た後に、ある取引小売店が大きな会場を借りてバーゲンする事になり、その会場に売れ残りのスキーブーツや、スキー板、スキーウエアーを売らしてもらう事になり、日本全国から売れ残りの商品をかき集めて4トントラックに満載にして、乗り込みました。

夢が現実になった

しかし、売れ残っていた商品や返品されてきた商品なので、箱などもつぶれたりしており、バーゲン会場のバックヤードに持ち込んだ商品を山積みにしたらその重さで崩れ落ち、下敷きになってしまいました。本当に、夢が現実になったのです。正夢/予知夢と言う物でしょうか?
幸い、けがはなくて済んだのですが、その時に出された弁当で食中毒になってしまったんですけど、とにかく会社の期待(在庫を減らす事)に添うよう必死でした。これ以外にも、小売り店の倉庫に置いていた自社のスキー板が崩れて下敷きになると言う事も経験しています。

スポーツ用品を売るのは楽しい!

平日の夕方の販売応援に行くお店(スポーツ店)も、会社から徒歩で片道20分以上かかるのですが、トレーニングになると前向きに捉えて、いつもそこまで走っていく(往復30分)事にしてました。このころから与えられた環境を、前向き(自分にとってプラス)に捉える癖がついていたと思います。

また、電車で帰る時間が無い(終電にも間に合わない)のがしょっちゅうで、お酒を一滴も飲まない、一番家の遠かった(真っ直ぐに帰っても車で1時間)私が、会社の車を運転して上司や先輩を送り届けてから、自宅に帰って、数時間寝て、又、朝一に車で出社の繰り返し。居眠り運転も当たり前だったのですが、良く過労死しなかった(運も良かった)ものです。高速道路で居眠り運転が原因の車線変更禁止違反で捕まったこともあります。ただ、本当にスポーツ用品(大好きなスキー用品)を扱う仕事が楽しかったとのが頑張れた要因です。

半値八掛け2割引きと言う、大安売り

売れ残ると、決算対策の在庫一斉セールで、営業部長さんが、私が担当していた大型安売り店に勝手にたたき売りして(今までの利益が吹き飛んでしまう)、すがすがしい顔になるのも嫌でした。半値八掛け2割引きと言う、べらぼーなたたき売り

・半値八掛け2割引きとは・・・・・ 当時(40年近く前)の業界でなされていた、大型小売店などへの値付けルール
例えば、定価(メーカー希望小売価格)10,000の商品なら、
10,000円 x 50%(半値) x  80%(八掛け) x 80%(2割引き) = 0.5×0.8×0.8=0.32 3,200円 で売ります。小売店に、 50% x 80% x 80%=定価の32%
小売店は、半額セール(売価5,000円)にしても、1,800円は儲かるわけです。半値掛けでも安いのですが、さらにもう2割引きしてしまう。
メーカー(叩き売る側)は、だいたいそれ(32%前後)が、原価です。在庫一掃セールの時の最低限の値段の相場は、原価。多分、値付け(メーカー希望小売価格)もそれを想定して設定されていたようです。私のバカな上司は、本部に転勤(栄転!?)する時に、大手の安売り店で、『転勤記念の特別価格 半値八掛け3割引き(28%)です』とか言って、原価を割って叩き売ってました。

『パワハラ=アルハラは当たり前』

スポーツ用品を扱う会社は割とノリが体育会的な方も多く、会社の慰安旅行で、酔っぱらった上司に『酒を飲めないと言う事で、頭からお酒を掛けられた』り、結構ひどい仕打ち(パワハラ=アルハラ)もうけました。

地方での小売店向けの展示会は、事前視察が重要
地方での小売店向け・新商品発表展示会を開催する時には、東京や大阪から来る上司の接待用に、『どこの居酒屋で宴会をすれば良いか、2次会のスナックはどこが良いか等を担当営業マンが事前にキチンと下見して把握しておくのは、当たり前』という先輩もいましたね。

生命保険会社に転職(離職)する時も、送別会の宴会場で、バカな上司俺が注いだこの酒を飲んだら一口保険に入ってやると言われたのですが、絶対に飲みませんでした。今なら、完全なパワハラ(アルハラ)でしょうけど、退職時の送別会ですからね。もちろん、そんな人の所には、保険の営業には行きませんでした。

こんな言葉や、頭からお酒を掛けられた体験などは、その後の人生ではメチャクチャプラスに作用してくれました。

実際、貴重な時間とお金をお酒に使い過ぎて、人生を無駄にしてしまったと言う人をたくさん見てきました。パワハラめいたこと(アルハラ)をしていた人は、結局、その後の人生は上手くいかなかったようですね。もう、この年になると結果も見えてしまってます

NEXT→30代 こんな便利なものパソコン(PC)あるのかと感動し駆使して生きようとした時代

20代は、こんな感じ↑でスポーツ業界で必死になって働いてました。ただ、スポーツ用品(特にスキー用品)を扱うと言う、楽しさがあったので何とか生き延びたようです。次は、転職・フルコミ営業への(30代)時代です。こちらも激動の時代でした。ちょうどパソコン(PC)もインターネットも一般的になって来たのですが、本当にこんな便利なものあるのかと感動し、駆使して生きようとした時代(NEXT→30代でした。